涼しいが、小雨がち。
宇野千代『色ざんげ』を読んだ。情痴小説というか奇妙な味わいの小説である。なんだか現実離れしているような感覚が終始つきまとう。画かきの主人公も三人の若い女性もみんな変だ。しかし、なんだろう気持ちがいいのだ、これ宇野の文章なのだろう。おもしろかった。
本日は広島の日、爆裂の時に合はせて黙祷しばし
佐久市の旧き商店街の一隅に「あさや」あり。あらひ・旨煮・鯉こくを喰ふ
佐久ICより関越道から圏央道へ渋滞ありて旅の終はり
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『孟子』尽心章句下237 孟子曰く、「聖人はの師なり。伯夷・是なり。故に伯夷のを聞く者は、もに、も志を立つる有り。柳下恵の風を聞く者は、もく、もなり。百世の上に奮ひ、百世の下、聞く者せざるはきなり。聖人に非ずんば、くのくならんや。而るを況や之にする者に於てをや」
聖人は百世の師なり。伯夷・柳下恵がこれである
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相馬御風編注『良寛和尚歌集』
いかなるが苦しきものと問ふならば人をへだつる心とこたへよ
【評言】釈教歌である。良寛にもこの種の釈教歌が相当に数多くあるが、どうもこれといういい歌が少い。良寛はやはりこうした理屈めいたことをいうに適しなかった人であろう。良寛と親交のあった解良栄重という人の手記にかかる『良寛禅師奇話』の中に次の一節がある。
「師余が家に信宿日を重ぬ。上下おのづから和睦し、和気家に充ち、帰り去ると雖数日のうち人自ら和す。師と語ること一たびすれば胸襟清きを覚ゆ。師更に内外の経文を説き善を勧むるにもあらず、或は厨下につきて火を焚き、或は正堂に坐禅す。其話詩文にわたらず、道義に及ばず、優遊として名状すべきことなし。唯道義の人を化すのみ」
そこがやはり良寛その人の尊いところであったのであろう。良寛の釈教歌中に見るべきものの少い理由もそこにある。この歌の如きも歌としてはさほど力のあるものでもないが、世の中の苦みは人と人とをへだつる心にあると喝破した点に何となく心ひかされずにはいられないのである。