9月24日(木)

今日は、昨日とうってかわって快晴。ちょっと暑くなるらしい。

夜の内に線状降水帯の直下にて激しく大量の雨が降るかも

相模川は茶色に濁り水量の増したるやうなり草地無くなる

三川合流地帯の広河原。泥水の内なり。激しき泥流

    *

『孟子』尽心章句下260 孟子曰く、「堯・舜りに至るまで、五百有余歳。禹・のきは、則ち見て之を知り、のきは、則ち聞いて之を知る。りに至るまで、五百有余歳。・の若きは、則ち見て之を知り、文王の若きは、則ち聞いて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有余歳。・の若きは、則ち見て之を知り、孔子の若きは、則ち聞いて之を知る。孔子由りに至るまで、百有余歳。聖人の世を去ること、のく其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れだしきなり。りして有ること無しとせば、則ち亦有ること無からん」

孔子の時代も孔子の土地もかくのごとく近いにもかかわらず孔子を知らぬとは

『孟子』260章句が終わった。いやあ長かった。これで『論語』・『大学』・『中庸』・『孟子』の四書が終わった。たいへんなことであったが終わったのだ。よくやった。ほめてやりたい。とはいえ、ほとんど覚えてはいないが。まあこんなものだろう。

しばらくは中国古典シリーズを休みたい。かわりに日夏耿之介『唐山感情』を読んでみる。漢詩が江戸前に生まれ変わる。何と魅力的な事か

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

夜あくれば森の下いほからすなく今日も浮世の人の数かも

【大意】夜が明けると今朝もこの森蔭の庵に烏の鳴き声がきこえる、ああ今日もわしは生きているのかなあ、きょうも昨日と同じく、わしは浮世の人の数に入っているのだな。

【評言】自己の生に対する驚き――そう云ったものが力強く表現されている。上句を自然に、すなおにやわらかく、しかもしみじみとした調子で運んで来て、下句に至って突如として内心の閃きを強く鋭く歌っている。この歌を「観念的に自己を見ている」というように云っていた人があったが、私はやはり鋭い実感の歌だと思っている。山中独居の朝のめざめに閃いた実感がこもってはいないだろうか。「今日も浮世の人の数かも」の表現を私は決して観念的だとは思えない。「浮世」という言葉もそれを私たちが使うのとは使う人の気持がちがっている。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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