朝、ちょっと雨は上がっていたが、雨・雨・雨だ。
相模川も泥土の色にあふれるか上つ瀬に雨大量に降る
中津川も小鮎川も泥水のやうなる川の流れなるかな
小鮎川はよく氾濫を起こせしもの松枝町あたりより水あふれけり
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日夏耿之介『唐山感情集』
蓮 しとやかなです
そのかげたをやか、
しとやかなはなんかだね、
きれいでゆかしいから君子人ににもつてこい、
しめやかできれいだからの組にははひらん、
の池にれ月かげきよかりだ。
蓮 淑女也
亭亭たる影
淑女逢迎少なり。
窈窕自らよろしく君子の配たるべし
幽嫺麗人の行に入らず
太液月華きよし。
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相馬御風編注『良寛和尚歌集』
久方の雨もふらなむ足引の山田の苗のかくるゝまでに
久方の雲のはたてをうち見つゝ昨日も今日もくらしつるかも
【語義】「久方の」は「雨」及び「雲」にかかる枕詞。〇「ふらなむ」は「降ってくれればいいなあ」。〇「雲のはたて」は「空のはて」。
【大意】前の歌は「山田の稲の苗のかくれるほど雨が降ってくれればいいなあ」。後の歌は「雨のほしさにわしは昨日も今日も空の涯を熱心に見ながら暮したわい」。
【評言】一種の雨乞歌である。「山田の苗のかくるゝまでに」には力が籠っている。そしてそのうちには単に自分一個の為めばかりでなく農人たちの為をおもう温かな同情もこもっているのである。後の歌は幾日も幾日も打続いた旱天の悩ましさと、雨を待つ心の焦立たしさとが一緒になって、ある一種の一般的な情緒をさえも象徴しているが如き感じを与える。二首とも言葉と調子とがピタリと一つになっている点がわけて心を惹く。
あしびきの山田のをぢがひめもすにいゆきかへらひ水運ぶ見ゆ
我さへも心もとなし小山田の山田の苗のしおるる見れば
我が心雲の上まで通ひなばいたらせたまへ天つ神ろぎ
などの歌も前の二首と関聯させて味うべきものである。なお以上とは反対に雨をわびた歌に次の如きがある。
久方の雲ふきはらへ天つ風うきよの民の心かよはば
手もたゆく植うる山田のをとめ子がうたふ唄さへやゝあはれなり
いずれにも真実の情がこもっている。決して歌わんが為めに歌ったというところがない。身は世外に住みながら、心は常に浮世の胸へとかよっていたのである。