7月18日(土)

曇りだね。梅干は昨日収穫す。

雨上がりの道は斑の文様なり濡れたる箇所と乾きたる場所

濡れてゐるところと乾きたるところ交互にありて歩みがたし

木の葉の枝より落ちたるは沙羅のしづくか悟りなどなし

    *

『孟子』尽心章句上195 孟子曰く、「君にふるなる者有り。の君に事ふれば、即ちをす者なり。社稷を安んずる臣なる者有り。社稷を安んずるを以て、悦を為す者なり。なる者有り。達して天下に行ふ可くして、る後に之を行ふ者なり。なる者有り。己を正しくして、して物正しき者なり」

人物には四段階ある君に仕える、国を安んずる、そして天民、大人、ほかも正しく感化するべし

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

この宮のみさかに見れば藤波の花のさかりになりにけるかも

【語義】「みさか」の「み」は尊ぶ意味を持った接頭語。

【評言】何等の説明も解釈も要しない単純平明な歌であるが、それでいて印象の深い余韻の豊かな歌である。たくらんだり、ひねくり廻したりしたのでは、到底これまで純な歌い方は出来ない。「この宮の」という以上、それは何とか固有の名を持った社であるに違いないが、それをことわる必要がないまでにこの歌では「この宮の」の「この」が力強く響く。それでいいのである。何となればこうした場合に特に「何々神社」とか「何某の社」とか云ったりすると、却って読者への印象が稀薄になるからである。そうかと云って単に「社」とか「宮」とかだけではまるで力がぬけてしまう。やはり、「この宮の」でなくてはいけない。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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