9月14日(月)

晴、晴れ。そして曇り。

密教のはどこかしくて動きだすごとく立ちあがらむか

上野の博物館はいま密教の聖地なり庶人来りてまた去りてゆく

公園の大木の影を頼りつつ歩くに汗はしとどに滲む

上野より海老名へもどり無花果ののごときをねぶらんとする

半分の月の明らかある夜にしてわがたましひのゆくへ知れず

    *

『孟子』尽心章句下252 孟子にき、にす。に有り。館人之を求むるも得ず。或ひと之を問うて曰く、「のきか、従者のすや」と。曰く、「は是れをむが為に来れりとへるか」と。曰く、「どなり」と。「れのを設くるや、往く者は追はず、来る者は拒まず。も是の心を以て至らば、に之を受くるのも」と。

履を廋す不心得者がいるとすればそれもよきもの引き受けるべし

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

松の尾の松の間をおもふどちありきしことは今もわすれず

【語義】「松の尾」は越後西蒲原郡にある村の名。〇「松の間」は「松の木の間。」〇「おもふどち」は「仲のよい友達」。

【評言】この歌を良寛が十五、六歳の少年の頃地蔵堂町の狭川塾にいた頃の追憶であるように云っている人もあるが、地蔵堂と松野尾村との間はかなりの道程である上に、松野尾は特別に遊びに行くような場所でもないから、その推定は俄に同意し難い。しかし、とにかく、ずっと以前の事をおもい出してなつかしんだ歌であることだけはたしかである。あるいは晩年西蒲原郡を去ってから後老衰の為めにあまり遠出をすることが出来なくなってからの作であるかも知れない。いずれにしてもさらさらと何のこだわりもなく歌い放っていてしかも綿々尽きない情味のこめられている歌い方に心惹かれる作である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA