あんまり天気はよくない。一日曇りらしい。
一樹のみ紫の花咲くところ桐の木ならむ遠山なれど
広葉樹の明るさと常緑樹の暗さがともにあるめぐりの山に
いづこにかほうほけきよの声響きくる春の山明るきさみどりの樹
『孟子』告子章句上143 告子曰く、「生を之れ性と謂ふ」と。孟子曰く、「生を之れ性と謂ふは、猶ほ白を之れ白と謂ふがごときか」と。曰く、「然り」と。羽の白きを白しとするは、猶ほ雪の白きを白しとするがごとく、雪の白きを白しとするは、猶ほ玉の白きを白しとするがごときか」と。曰く、「然り」と。「然らば則ち犬の性は、猶ほ牛の性のごとく、牛の性は猶ほ人の性のごときか」と。
犬の性は牛の性と同じであり牛の性は人の性と同じなのか
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
すぐれて速きもの 鷂隼手なる鷹 滝の水 山より落ち来る柴車 三所五所に申すこと (四句神歌・雑・三七四)
【現代語訳】とりわけ速いものは、鷂、隼、鷹匠の手に止まって出番を待つ鷹、滝の水、山から落ちて来る柴を摘み載せた大きな木、熊野の三所権現と五所王子への願い事。
【評】速いもの尽くし。スピード感のあるものを並べ、最後に意表をつくもので歌い収めている「鷂」は小型の鷹。鳩ほどの大きさで森林の中や周辺を速い速度で飛ぶ。「隼」は中型の猛禽類。鳩より大きく烏より小さい。高空を高速で飛ぶ。繁殖はおもに海辺の断崖。「手なる鷹」は、手に止まっている大鷹の意であるが、じっと止まっていることは速さとは直接には結びつかない。おそらく狩のために鷹匠の手に止まって出番を待っていることを示し、飛び立った後の速さを表現しようとしているのであろう。大鷹は平地から山地で見かけられる大型の鷹。「柴車」はこれまで、柴を丸く束ねたものとされてきたが、この根拠は連歌用語を解説した『産衣(うぶぎぬ)』で、元禄一一年(一六九八)刊と時代が下る。それより早く、応永七年(一三七四)~宝徳四年(一四五二)の間に成立した歌学書『六花集注』に「柴車とは大なる木の枝を切て其上に多く枝をのせて峰よりおとす也」とあるから、小枝を積み載せた大きな木と解すべいである。
「三所五所」は、ほとんどの注釈書で、熊野の三所権現と五所王子のことと考えられているが、神々に申すことが「速い」という点については、神に申す唱えごとが早口であるとする説、霊場案内人の説明が早口であるとする説、神の霊験がたちどころに現れるとする説がある。次のように「はやき神」で霊験あらたかな神を表現するような用例から、願い事がすぐさま聞き届けられるという霊験の現れの速さを言っているものと解したい。
蔵人にならぬことを嘆きて、としごろ賀茂の社に詣で侍りけるを、二千三百度にも余り侍りける時、貴船の社に詣でて、柱に書き付け侍りける 平実重
今までになど沈むらん貴船川かばかりはやき神を頼むに
(今までどうして沈淪していたのだろう。貴船川の流れの速さのようにこれほど 効験の速い貴船明神を頼みにしていたのに)
かくて後なん、ほどなく蔵人になり侍りける、近衛院の御時なり(『千載和歌集』神祇)
当該今様は、鷂、隼、大鷹という猛禽類を並べ、自然のものである滝の水、山の木を利用した素朴なものながら人の手が加わった柴車、そして神の霊験というように、自然、人間、神と対象の範囲を巧みにずらしている。特に結句は、それまでの物理的なスピードとは異質な時間的速さを表現して意表をついたものなっている。次々に並べられていくものを耳から聞く今様の場合、最後の「おち」の工夫が重要であるから、当該今様はその点で巧妙に仕立てられた一首と言えよう。