5月30日(土)

朝から晴れているが、涼しい。

  古梅園の女店主も鼬毛の筆一本に講釈長し

  店から奥へつながる線路いまもある墨を運ぶもトロッコにして

  ここも昔の町家造り間口が狭く奥行深し

『孟子』告子章句上159 孟子曰く、五穀の種の美なる者なり。苟も熟せずと為さば、(てい)(はい)(し)かず。夫れ仁も亦之を熟するに在るのみ」

  仁の徳はよく熟したるところにこそあれ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり) 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に(く)ゑさせてん 踏み(わ)らせてん (もこと)に美しく舞うたらば 花の園まで遊ばせん  (四句神歌・雑・四〇八)

【現代語訳】舞え舞え蝸牛よ。舞わないならば馬の子や牛の子に蹴らせちゃうぞ、踏み破らせちゃうぞ。本当にかわいらしく舞ったならば花園にまでも遊ばせてあげよう。

【評】蝸牛が触覚を出し入れする様子を「舞う」と表現し、蝸牛に呼びかける一首。虫への呼びかけの表現、さらには言うことをきかなければ罰を、言うことをきけば褒美を与えるとする表現は、次に掲げるように、後の伝承童謡の中にも多く見られる形式である。

まいまいつぼろ角出して見せろ 
(『弄鳩秘抄』常陸水戸周辺の童謡集。編者は文政七年(一八二四)没)

角出せ棒出せまひまひつぶり うらに喧嘩がある
(『嬉遊笑覧』文政一三年<一八三〇>一〇月序文の百科事典)

でんでんご でんでんご 早よ起きて水くめ お前の家が焼けるぞ (香川)

蝸牛(みよう) みょう 角出せ 角出さにゃ 家壊す           (新潟)

蝸牛(でんで)こない 出やっせ 早よ出なや 角折るぞ          (三重)

ちんなもう ちんなもう 米搗ち見しらば 飛ん出りよー     (沖縄)

蝸牛(べこ) べこ 角出せ 生味噌(か)せるなぁ             (青森)

蝸牛(めえめえこんしよ) 角出せ (こ)(ぬか)三升やろう                (愛知)

でんでんむし 角出せ槍出せ 蓑と笠を買うてやろ         (岡山)

火事や喧嘩であわてさせるもの、家(殻)を毀す、角を折るなどと脅すもの、米搗きや生味噌などおもしろいものや美味しいもので誘うものなどがあるが、これらと比較すると、、(角、槍などを)「出せ」とする後代の童謡に対して、今様は「舞え」と歌い、殻を破るのは馬や牛の「子」であるところがほほえましい。褒美にしても「米搗き」や「生味噌」「粉糠」「蓑笠」に対して花園での遊びを出す点、相対的に優しく典雅な趣が感じられる。なお、狂言「蝸牛」では、藪で寝ていた山伏を蝸牛と間違えた太郎冠者が、山伏に教えられるままに「雨も風も吹かぬに、出ざ釜打ち破ろう」と囃す。出てこなければ殻(釜)を打ち破るという脅し型の囃子物で、当該今様の前半と重なる。

蝸牛の童謡は、日本に限らず、世界各国に見られるが、当該歌謡はその中でも際立って美しい名作と言えよう。

蝸牛、蝸牛、角をお出し。角を出したらパンと大麦の粒をあげよう。

蝸牛、蝸牛、殻から出ておいで。出てこなかったら石炭のように真っ黒焦げに焼いちゃうよ。       (イギリス『マザーグース』)

蝸牛、蝸牛、角をお出し。ピローグをあげよう。
(井桁貞敏編『ロシア民衆文学』三省堂、一九七四年/ピローグはロシアの伝統的な料理で、生地の中に具を入れて焼き上げた大きなパン)

でんでん虫、でんでん虫 お前のうちが焼ける ソシラング持って出て来い
(金素雲『朝鮮童謡選』岩波文庫、一九三三年/ソシラングは鉄製の熊手)

なお、『法隆寺祈雨旧記』暦応三年(一三四〇)八月一二日条には雨を祈る際の芸能に「マへマヘカタツフリト云フ事」があったと記されている。蝸牛に扮した舞い手を当該今様に類似した歌で囃すものであったと思われるが、ここでは湿気を好む蝸牛が雨を呼ぶものとして捉えられているらしい。

さて、当該今様の影響を受けたと思われる寂蓮の和歌に、牛の子に踏まるな庭の蝸牛角のあるとて身をなたのみそ (『夫木和歌抄』十題百首)

がある。この寂蓮詠は建久二年(一一九一)閏一二月四日に披講されたもので、書物としての『梁塵秘抄』成立後二十年ほどが経っている。寂蓮の和歌には今様の影響を受けた見られる例が複数あるので、この蝸牛の和歌も当該今様を取り込んだものと考えてよかろう。今様で「踏み破らせるぞ」と脅された蝸牛に対し、寂蓮歌は、「踏まれるなよ」と励ますような詠み方になっている。この寂蓮詠は、俳諧書に引用され、江戸時代の蝸牛の俳諧には、寂蓮詠の影響が散見する。

ふみころされなよやかたつぶり  (『新増犬筑波集』)

文七にふまるな庭のかたつぶり  (『類柑子』其角)

たのみなき角としおもへ蝸牛   (『暁台句集』)

江戸時代には埋もれていた『梁塵秘抄』であるが、寂蓮詠を通して間接的に今様が俳諧に影響を与えていたことになる。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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