8月4日(火)

八ヶ岳は清涼だ。

行くところにみみず動かず。ふまぬやうに歩み避けゆくみみずの身投げ

やっとこさっとこしんばうして土の中よりはいだすものを

空は曇りされど猛暑にみみずたち路上に乾びてのたうちまはる

    *

『孟子』尽心章句上211 問うて曰く、「舜、天子と為り、、士と為り、、人を殺さば、則ち之を如何せん」と。孟子曰く、「之をへんのみ」と。「然らば則ち舜は禁ぜざるか」と。曰く、「夫れ舜はんぞ得て之を禁ぜん。夫れ之を受くる所有るなり」と。「然らば則ち舜は之を如何にせん」と。曰く、「舜は天下を棄つるをること、猶ほを棄つるがごときなり。かに負うて逃れ、海浜にひてり、終身として、楽しんで天下を忘れん」と。

舜王の父が人を殺せばいかにせむ天下を棄てて父を負うて逃れゆくのみ

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

この頃は早苗とるらしわが庵はかたを絵にかき手向こそすれ

【語義】「早苗」は苗代から田に移植する頃の稲苗の称。即ち「早苗とるらし」は「稲の苗を苗代からとって田に移しているのだろう」の意。〇「かた」は「形」で、この場合ではその「様子」の意。〇「手向」は「供え物をする」。

【大意】この頃はどこでも田植をしているであろう、そう思って自分の庵ではその農人労作の有様を絵にかいてそれを神仏同様に思い供え物をして拝んでいる。

【評言】有りのままに事を叙しているのであるが、そのうちにもおのずから良寛その人の貴い心が現れている。農人の労作に対するさまざまの思いやりや、またそれについて自ら省みた上のさまざまの感情を少しも叙べずに淡々として事を叙している。そこには聊かの思わせぶりも、誇示もない。そのありのままが却って深い感動を与える。しかも「手向こそすれ」の「こそすれ」などの力強さには樸たれずには居られない。「かたを絵にかき」なども容易に出て来ない表現である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA