2024年5月1日(水)

メーデーだ。メーデーの会場へ行ったのはいつだっただろうか。天気はよかったものだが、今日は曇り、やがて雨になるらしい。

  メーデーに行く時はいつも快晴で日比谷野音は溢れをり

  なんとなく時の節目にゐるごとく東京駅まで叫びつつ歩く

  人の後に従ひ歩く手作りのプラカードなどに意思表示して

『論語』述而一五 孔子が言う。「疏食をくらひ水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。

「楽しみはやはりそこにあるものだ。」道ならぬことで富、身分が高くなるのは、私にとっては浮草のように実のない無縁なものだ。

  疏食(そし)にして水のみ肘を枕にすわがたのしみはこの内にあり

『正徹物語』123 無心所着の歌は、一句一句違うことを言った歌だ。万葉集に
・我が恋は障子の引手峰の松火打袋の鶯のこゑ
・我がせこがうさぎのをのつぶれ石ことゐの牛のくらの上のかさ
・法師等がひげのそりくひむまつなぐいたくな引きそ仰ながらも

  ナンセンスなる歌いくつもある宴はいつの世にもさかんなり

『伊勢物語』七十三段 男は、遠い女を思っていた。生きている事だけはわっているが、便りすることさえ、かなわぬ女だ。
・目には見て手にはとられぬ月のうちの桂のごとき君にぞありける

  目には見て手にはとられぬわが恋のくるしきばかり月あかりくる

2024年4月30日(火)

朝から雨だ。時々止むものの、また降る。外を歩けないので、室内・廊下・階段を歩く。

  室内・廊下・階段を二千歩ほど歩く今日午前のノルマ

  ノルマとはシベリアに抑留された者が伝えへしといふ苛酷な労働

  沸かしたての麦茶を注げば茶碗より白き湯気立ち薄く消えゆく

『論語』述而一四 冉有が言う、「孔子は衞の君を(衛の出公輒。内乱状態にあった)助けられるだろうか。」子貢が、わかった、私が孔子先生にこれを問う。入って尋ねた「伯夷と叔齋とは、どういう人ですか。」孔子が言う。「昔のすぐれた人だ。」子貢が「君主の位につかなかったことを、後悔したでしょうか。」孔子が言う。「仁を求めて仁を得たのだから、何を後悔しよう。」子貢は退出すると「夫子は為けじ。」と言った。

そりゃそうだ。孔子の理想とする伯夷・叔齋とはまったく違う。

  仁者にあらねば孔子助くることやなし衛の乱れざま視野にも入らず

『正徹物語』122 宇治への行幸があり、清輔が供奉した。歌の会があったが、他の人は皆出したが、清輔一人、長々と考えて、遅れて出した。「清輔なれば、人も許し、」遅れたことも問題にならなかった。
・年へぬる宇治の橋守事とはむ幾世になりぬ水のみなかみ

この歌は「宇治の橋守」から下はすべてでき、最初の五文字が思い浮かばなかった。どうしようもなく、「年へぬる」の五文字を注のように小さく書いて出した。これは下四句と比べるとまったく足りない五文字である。

  歳ふりし宇治の橋守にこと問はん幾世になりぬ水流るるは

『伊勢物語』七十二段 伊勢の斎宮づきの女房に、ふたたびは逢えぬ男がいた。そして隣国へ行くことになった。男は、女を恨んだ。すると、女は詠んだ。
・大淀の松はつらくもあらなくにうらみてのみもかへる波かな
男は、引き返してきた思いたいですね

  大淀に待つはつらしと思ふりうらみてゐても男はかへる

2024年4月29日(月)

今日は、昔の天皇誕生日。昭和天皇の生まれた日である。父の死の日から、そう遠くない。今日は晴れだが、昼頃から曇り。やがて明日につづけて雨になるらしい。

  昭和天皇の誕生記念日に近くして父死せり殉死の思ひあるべし

  平成の天皇即位し父の生くる意義失ふか四か月後の死は

  午後からは雲の世界になるらしき鬱陶しきは父の死にある

『論語』述而一三 孔子は、斉の国で韶(舜がつくったといわれる音楽)を数カ月のいだ聞いた。肉の美味さも知らなかった。思いもよらなかった、音楽というものがこれほどすばらしいとは。

  韶を聴きそのうつくしさに感嘆する孔子よ楽なすすばらしきこと

『正徹物語』121 当座歌会では、若輩であれば、短冊を書くことは遅く、出すことは一番にする。老若居並んで、年長者がはじめに墨をつけて書き順に硯を押して渡していく。末座は最後に書く。しかし短冊を題者のもとへは一番早くする。どんなに歌が早く出来たとしても、年長者の書くより前に若輩は書かない。心得ておくべきことだ。年長者は長々と思案に耽るのもよい。しかし末座の若輩であれば、長々と案じて遅れて出すことは、無礼千万である。昨今ように面々が折紙を手に持って見せるとは、以前には無かった。隣同志の親しい仲間ならば、互いに「ここはこんな風には詠めないから」などと批判を求める。当座といっても慌ただしく落ち着かない。

  当座歌会にも仕来りがある若輩には物忩に見ぐるしきなり

『伊勢物語』七十一段 男が伊勢の斎宮に、帝の使者として参じた時、斎宮の御殿につかえる女房が、色ごころある物言いする。女房はひそかに、こう詠んできた。
・ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし大宮人の見まくほしさに

男は詠んだ。
・恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに

  神すらも味方につけて愛すべき女子(をみな)か あれば垣も越えなむ

2024年4月28日(日)

朝から晴れて、少し暑い。歩いてくるとまた暑いのだ。

  葉ざくらの風に煽られ大き枝激しく揺れて音たててをり

  葉ざくらに小さき実あり風に落つ黄色く積もる地べたを歩む

  ウインドを開けっぱなしに自動車(くるま)来るロックのごときを大音にして

『論語』述而一一 孔子の言。「富を追求してもよいなら、鞭をとる市場の監督でもつとめよう。もし追及すべきでないなら、私は好きな生活に向う。」

わかりますが、執鞭の士への差別ではありませんか。

  われ富を求めんとすれば執鞭の士ともなりなむと孔子のたまふ

『正徹物語』120 懐紙を重ねることが第一の難事である。位階の順、あるいは家格により重ねるものなので、厄介である。公家の会では官職と位階があり、それに従えば重ね方は簡単だ。公家と武家が会合するときが面倒なのだ。

勝定院殿義持の治世に、官は中納言、位は正二位であった飛鳥井雅縁の懐紙を、当時の管領だった岩栖院・細川満元の上に重ねたところ、満元はもうこの国の執政だから、飛鳥井より上に重ねよと義持はいった。管領は参議に準ずるので、中納言より上に重ねることはできないと満元はいい、承服しなかった。

どうだっていいことにプライドかかっていたのかな。この時代は。

  わが上に懐紙を重ぬることなかれ将軍の言も承引はせず

『伊勢物語』七十段 伊勢で狩りの使いを終えて、尾張へ向かう時である。大淀の渡りに泊った。そこへ斎宮に仕える童女がつかわされてきた。男は童女に呼びかけた。
・みるめかるかたやいづこぞ棹さして我に教へよ海人の釣舟

  いつまでも未練おさまらぬ男なり近き泊りに逢たかりしを

2024年4月27日(土)

朝から細かい雨。やがて上がるらしいが、今まだ降っている。

昨夜、カルロス・ルイス・サフ ォン『マリーナ バルセロナの亡霊たち』を読み終えた。これが凄いサスペンスであった。スペイン北東部のバルセロナを舞台とした物語である。15歳のオスカルが荒廃した城館に迷い込む。そこに住むマリーナ、その父ヘルマンと知り合う。仔細はいろいろあるが、その不気味さ、恐ろしさは無類であり、現代と過去を結んで死の世界へ直結している。愉しい、読み終えるのが惜しまれる読書であった。

  やかんに沸騰せし麦茶を卓上の茶碗にそそぎ白き湯気立つ

  卓上の茶碗にのぼる白き湯気たゆたふやうにそして消えゆく

  手にかかへ碗の温さをいと愛しむこころも温し朝の時の間

『論語』述而一〇 孔子が顔淵に言った。「用いられたら活動し、捨てられたらひきこもるという時宜を得たふるまいは、私とお前とだけにできることだ。」子路が尋ねた。「孔子が大軍を進めるとしたら、誰といっしょですか。」孔子が言う。「暴虎馮河して死して悔いなき者は、吾れ与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ、謀を好みて成さん者なり。」

  大軍を率いるならば暴虎馮河の者とは与せずと孔子のたまふ

『正徹物語』119 兼題の歌会で、当日になって懐紙の歌をあれこれ沙汰するのはあってはならぬことである。そういうことがないように前もって題を出すのだから、前日には相談すべき人に添削を願い、批評も受けて清書し準備して、当日にはただ懐中入れて出仕すべきだ。懐紙は紙面をこすって修正などはしない。これも前から用意するものであるからだ。短冊で詠むのはその場に臨んでのことなので、なるほど擦って直してあるのがあるべき姿だ。

  兼題には前日までに準備してその日は懐中にして修正などせず

『伊勢物語』六十九段 男が、伊勢の国へ狩の使いにつかわされた。伊勢の斎宮の親が、「この勅使を鄭重にもてなせ」と斎宮に言ったので、親の言葉だから、心をつくして男の世話をした。朝は狩のしたくをして送り出し、夕べに戻れば、自分の御殿に迎えた。ねんごろに男の労をねぎらった。

二日目の夜、男が、「どうしてもお逢いしたい」と言う。女もまた、逢うまいとは決められなかった。しかし人の目がある。逢うことは容易ではない。男は公の役人であるから、女の御殿の近くに泊っていた。女の閨も近い。人々が寝静まって、子の一刻(夜の十一時過ぎ)に、女は男のもとに向った。

男は、眠れぬまま、ぼんやり外を見ながら、臥していた。おぼろな月の光の中に、小さな女の童を先に立て、ひとが立っている。男は、たいそううれしく、寝所に連れてきて、子の一つより丑三つ(午前二時すぎ)まで共にいたが、語りあったことは少なかった。女は去った。男の心はひきさかれるようであり、眠られず夜明けをむかえた。女の身分もあって人をやることもかなわず、男は煩悶した。女から使いがくるだろうか。夜が明けきり、しばしのち、女より文がきた。言葉は無く、歌だけが書いてあった。
・君や来し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てかさめてか

男は泣いた。そして詠んだ。
・かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ

と詠んで、狩に出た。男の心はうつろだった。明日はもう帰途につかねばならない。今宵だけでも逢いたかった。ところが、伊勢の国の守で、斎宮寮の長官が男のために酒宴をひらいた。一晩中酒盛りであった。夜が明ければ尾張へと発たなければならない。男は人知れず血の涙をながしたが、二人で逢うことはかなわなかった。

しだいに夜が明けようとするころ。女が盃をさしだした。盃の皿には、歌が書かれてあった。男は手に取り見ると、
・かち人の渡れど濡れぬえにしあれば

そこまでだった。男は松明の消炭を手に取り、つづきを書き継ぐ。
・またあふ坂の関はこえなむ

男はそう詠むと、尾張へむかった。
時は清和天皇のころ、斎宮は、文徳天皇の皇女であり、惟喬親王の妹である。

  斎宮は神聖なものされどその斎宮を愛し男悶へる

2024年4月26日(金)

よく晴れている。リハビリ。周囲をめぐったが、暑い。

  赤いつつじ白いつつじが庭に咲く異界へむかふ(こみち)ありけり

  赤、白のつつじの花の大きくて蜜の香りの溢る園すぎむとす

  赤いつつじ白いつつじの咲きにけりこの道老いのよぼよぼがゆく

『論語』述而九 孔子は、「喪ある者の側らに食すれば」、十分にはめしあがらなかった。また「是の日に於いて哭すれば、則ち歌はず。」

  喪のときには孔子慎み食少し哭あれば則ち歌うたはず

『正徹物語』118 或所の七夕の会に、頓阿と子息の経賢法印が出席した。経賢が「七夕の鳥」という題を取り、一首詠んで、頓阿に見せた。「思ひもよらぬ事」とて、投げ返した。経賢がまた詠みなおして見せたが、またなげ返した。また詠みてみせたるに「これも叶ふべからず」と返した。そこで経賢は「何とか仕り候べき」と、頓阿は「七夕には決まって詠む鳥があるでしょうが」といった。さて経賢が詠んでみせたところ、「これはさしつかえない」といった。披講の際に、なにを詠んだか見てみたら、鵲でした。昔は七夕でも別の鳥を詠んだものですが、二条家では、伝統から外れ異風となること嫌った。「七夕の鳥」ならば何度でも鵲を詠まなくてはならない。たしかにいつも星と鵲であるが、しかし趣向を目新しく立てようと心がけるのがよい。こうすることが好ましいスタイルにもなる。「七夕の鳥」で五首も六首も詠もうとするときは、雁でも他の鳥でも詠むのがよい。

  頓阿翁のこだはりいかが風情珍しくするがよきなり

かたくなな二条家に対して、正徹には少し違った思いがあるということであろうか。

『伊勢物語』六十八段 男が和泉へ行った。住吉の郡、住吉の里、住吉の浜を、通ってゆく。心晴れ晴れとする景色である。馬からおり、腰をおろして眺める。「住吉の浜」を、歌に詠みこんでみよ」という人がいるので
・雁鳴きて菊の花さく秋はあれど春のうみべにすみよしの浜
と男は詠んだ。見事な詠みぶりに、ほかに詠みこみ歌を作ろうという者はなかった。

この歌、そんなに見事ですかね。う~ん、そうかなぁ。

  住吉を歌はば海のすばらしさを技巧ではなく素直がよきなり

2024年4月25日(木)

雲が多いが、明るいのだ。そのうち晴れてくるらしい。そして暑くなる。

  山の端は雲に隠ろふ山肌はわかみどり色日に映えて棚雲たなびく朝の風景

  これほどにわかみどり色日に映えて山の一郭かがやきしなり

  棚雲は山の中ほどを這ふやうに西の連山をずっと及べり

『論語』述而八 孔子が言う。「憤せずんば啓せず(わくわくしているのでなければ、指導しない)。「悱せずんば発せず(口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない)。「一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反へらざれば、則ち復たせざるなり(一つの隅をとりあげて示すとあとの三つ隅で答えるというほどでないと、くり返すことをしない)。まあ、向学心の程ですか。

  憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず、一隅にして三隅反さざれば教ふるに能はず

『正徹物語』117 常光院・典厩・智蘊入道などと会合した機会に、「昔のすぐれた歌人の中で、誰のような歌が詠みたいか」という話題がもちあがり、面々が書いて出した。

常光院は曾祖父の頓阿の
・ふくる夜の川音ながら山城の美豆野の里にすめる月かげ 草庵集543

智薀は、
・あやしくぞかへさは月の曇りにし昔語りに夜や更けぬらむ 行遍 新古今1550

典厩は後鳥羽院下野の 
・忘られぬ昔は遠くなりはてて今年も冬は時雨来にけり

と、それぞれ歌を書いて出した。そして最後の歌に「『これほどの歌なし。』この歌を詠ずるたびに落涙せられるよし語り侍りき。」

後鳥羽院は、承久の変の敗北に隠岐へながされ、その女房だった下野の嘆きということだろうか。

  流されし後鳥羽院こそ思ひ出でて今年も冬は時雨来にけれ

『伊勢物語』六十七段 男が、親しきものたちと逍遥した。二月に和泉へ行った。生駒山が、はるか河内の方角に見える。曇っては晴れ、晴れては曇る。まるで人が立ったり座ったりするように、雲が上り下りする。朝に曇り、昼に晴れる。雪はましろに梢に降りかかる。その景色を見て、一人が詠んだ。
・きのふけふ雲の立ち舞ひかくろふは花の林を憂しとなりけり

  きのも雲にかくろふ生駒山そこ越せば古きみやこ大和の国なり