2024年3月24日(日)

なんとなく曇り空。あいかわらず寒い。もう三月下旬。染井吉野の開花情報も高知だけだ。

  どことなく寂しき思ひに湯に浸かるああとため息この日々の果て

  湯気にけぶる鏡に映るひょっとこづらひょうげて踊るわれならなくに

  街の灯は遠くに見えてまだ明かる終夜灯るか海老名の町は

『論語』雍也九 季氏が(びん)氏騫(しけん)(孔子の門人。子騫)を費の町の宰にしようとした。閔子騫は言った、「善く我が為に辞せよ。もしまた私に勧める者があれば、私はきっと汶水のほとりに行くことでしょう。

  閔子騫、季氏に使はれること良しとせず汶のほとりへ逃れるべしや

閔子騫はなかなか潔い人だ。

『正徹物語』88 定家の「忘るる恋」、
・忘れぬやさは忘れける我心夢になせとぞいひてわかれし

この歌も、すぐには理解できない。勝定院(足利義持)の時、正徹と孝雲にこの歌について質問があった。二人の趣旨は違った。その頃洛中で評判したのは、私が、やはり正しい。恋人と約束を交わしても、現実と思えないまま「無かったことにしましょう」と言ったことを単に「忘れぬ」のでは、すっかり相手を忘れたことになる。そうではなくて「無かったことにして忘れて下さい」と自分から言って別れたのに、そのことを忘れてしまった。だから相手のことは決して忘れられない。こんなふうに定家の歌は題に心底共感し、その中に乗り移って詠んだ。定家の「恋の歌」に並ぶものはいない、家隆でも及ばない。
・さても猶とはれぬ秋のゆふは山雲吹く風も峰に見ゆらむ 新古今1361
・思ひいでよたがかねごとの末ならむ昨日の雲の跡の山風 新古今1294
などが匹敵するでしょう。孝雲が言ったのは、「忘れぬや」とは、相手に対して「忘れたのか」と尋ねたという意である。

定家の
・やすらひに出でにしままの月の影我涙のみ袖にまてども 拾遺愚草876
・白妙の袖の別れに露おちて身にしむ色に秋風ぞ吹く 新古今1336

「極まれる幽玄の体なり。」これらも簡単には理解できない歌である。

今回はなかなか難しい。だいたい幽玄など現代の短歌にはない。

  春の盆の日雨しとど寒きがなかをおもひしやきみ

『伊勢物語』三十九段 西院の帝(淳和天皇)には、娘があった。皇女崇子(たかしいこ)という。

その崇子が十九で亡くなった。その葬送の夜。西院の隣に住んでいた男が、葬送を見送ろうと、女車に、女と同乗した。皇女の柩車はなかなか出ない。そんなとき、色好みで知られた源至も亡き皇女の見送りにきていた。至は、女車に男が同乗していると思わず、近づいた。至は、たわむれに口説きはじめた。やがて蛍をつかまえ、女車へ放った。乗っていた女は、蛍の灯りに顔が見られてしまうと恐れた。男は、女にかわって詠んだ。
・出でて(い)なば限りなるべみ(とも)(し)(け)ち年(へ)ぬるかと泣く声を聞け

至は、返した。
・いとあはれ泣くぞ聞こゆる灯火消ち消ゆるものとも我は知らずな

色好みの至にしては、並みの歌だろう。源至は源順の祖父にあたり、亡くなった皇女の血筋の者である。至の行いは、皇女にとって不本意なものであった。

源至よ、大丈夫か。

2024年3月23日(土)

朝は降っていなかった。10時前には、小さな雨。寒い。雨が降ると、「君が心をくれたから」を思い出しては、目頭が熱くなる。泣けるドラマであった。

  雨ちゃんと太陽くんの物語、奇蹟に涙したたりやまず

  雨ちゃんが五感を失ふ展開の泣けてならねば録画を止める

  永野芽衣の笑顔がなんともいへずよし笑顔みたくてテーマ曲聴く

『論語』雍也八 季康子が問うた、仲由(子路)は政治をとらせることができますか。」

孔子の答え、「由は果断です。政治をとるくらい何でもない」。「では賜(子貢)はどうですか。」「賜は何事でも通達する。政治をとるくらい何でもない」。求(冉求)はどうでしょう。「求は才能豊か。政治をとるくらい何でもない。」

弟子の人物評価でしょうか。子路、子貢、冉求は高評価である。

  子路も子貢も冉求も政治を執れる孔子答へき

『正徹物語』87 「忘るる恋」の題で、こう詠んだ。
・うきものと思ふ心の跡もなく我を忘れよ君は恨みじ

「忘るる恋」は、何度でも相手が自分を忘れること。相手が何を忘れるか。交した約束を忘れるのである。私を嫌い、嫌だと思うことは忘れない。この私を憎い、嫌だと思う気持ちもきれいに忘れてしまえば、未聞不見の人のようだ。そんな風に契りを忘れるとというなら、全て忘れてしまえ。その時は決してあなたを恨むまい。私を嫌って避けることは、忘れてくれないことが遺恨である訳なのだ。

  忘れられぬ恋あるべしや思ひだすことのくさぐさに心を残す

『伊勢物語』三十八段 紀有常のもとを、男は訪ねた。有常は外出し、あちこち歩きまわり、遅くまで帰ってこなかった。有常に、男は詠んだ。
・君により思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ

有常の返歌。
・ならはねば世の人ごとに何をかも恋とはいふと問ひし我しも

遅くなった侘びはないのかな。

2024年3月22日(金)

今日も晴れているが、寒い。リハビリ。

木村朗子、さえこと読むらしい。『妄想古典教室』(青土社)を読む。楽しかった。この人の本は、最近『百首で読む「源氏物語」』を読んだところだが、これも楽しく、後日ここにも登場することになるはずだ。「あとがき」にこうある。「むかしむかし、私の学生時代には品川駅から出る大垣行の夜行列車があった。大垣から米原に出て、さらに乗り継いで奈良に着く。(略)寺社をめぐって仏像、神像を見て歩いた」という回顧からはじまる。木村さんは1968年生まれというから、私より若い人だが、私も同様の体験をもつ。大垣行の夜行普通列車を利用して、何度大和へ行ったものか。この列車がなければ私の大和狂いはできなかっただろう。大垣駅での洗面の時を今でも思い出す。長くなったが、この本を読んで、あれこれの神社、寺院。あれこれの絵巻、あるいはピット・リヴァース博物館の魔女入りのボトルなどを見て、妄想したくなった。とりあえずわが家からそう遠くない江ノ島の弁財天像に逢いにいこうか。

  日なたにはモクレンの花春の色日翳りの木はいまだ冬の木

  朝から明けのカラスの濁りごゑ遠近に鳴く町ひらけゆく

  モクレンの蕾が開きつぼ型のかたちにひらくいまだ寒き日

『論語』雍也七 孔子が言った。回は三月も心を仁の徳から離さない。他の者なら一日か一月のあいだだろう。」

  顔回と其の余の者をくらぶれば心を仁から離すことなし

『正徹物語』86 為継(法性寺と号した)は、隆信(定家の異父兄。似絵の名手)の子孫。信実は隆信の子である。信実は人麻呂を画いた。絵師ではないが、信実以後代々家風を伝えて絵をよく画いた。法性寺の現在の当主為季は歌も詠まず、絵も画かない人だ。

  人麻呂を絵に画きし藤原信実を褒めたるか当代のだめさをいへり

『伊勢物語』三十七段 男が「色好みなりける女にあへりけり。」女の心変わりを不安に思い、詠んだ。
・我ならで下紐解くな朝顔の夕かげまたぬ花にはありとも

女が返した。
・二人して結びし紐をひとりしてあひ見るまでは解かじとぞ思ふ

なんだか直接的過ぎるようなやりとりに思えますが。

2024年3月21日(木)

今日も青空、しかし寒い。北西の強い風がある。ベキシブル一錠、副作用がでなかった。  

  べレキシブル再開するに一夜経て副作用なしほっと息する

  今後のことはいまだ判らずべレキシブル服用しつづける他に手立てなし

  首傾け身体かたむけわが立つにたましひも傾ぐ混濁してゐる

『論語』雍也六 孔子が言った。仲弓は、「犁牛の子」、赤い毛並みでも角がよければ、用いないでおこうと思っても、山川の神々の方でそれを見捨てておこうか。抜擢されるに違いない。

  仲弓は微賤の出でも角が良し山川の神に抜擢されるべし

『正徹物語』85 恋の歌で、定家ほどのものは、昔も今も決してあるまい。「待つ恋」の題で、このように詠んでいる。
・風あらきもとのあらのの小袖萩に見て更けゆく月におもる白露(拾遺愚草858)

この歌は、自分の身を題の中に置いて詠んでいるので、「待つ」という語を使わなくても、人を待つ意が伝わってくる。はてさて、世迷言を言っているように思えるだろう。しかし深く考えてみれば、「骨髄に通じて面白きなり」。萩の花が咲き乱れている庭を眺めて人を待っていると、小萩に風が強く吹いて、露がこぼれ落ちるのが、人を待ちわびて落ちる袖の涙と同じに見え、夜更け月が傾くにつれて、いよいよ袖は涙に重くなり、小萩の露と競っているような情景が思い浮かび、人を待つ心も深く感じられる。「縁のはしへも出でて、眺め居てこそあるらめ」とも想像されるスタイルだ。「まことに心くるしく夜もすがら待ち居たるすがた、艶にやさしき。」

  定家の歌かくも好めばこの歌から人待つ侘しさこれこそ艶なり

『伊勢物語』三十六段 むかし、「忘れぬるなめり」と問しごとしける女に歌を送った。
・谷せばみ峯まで延へる玉かづら絶えるむと人にわが思はなくに

わたしの思いも玉蔓のように絶えることなく続くよ、と言っている。女は、男を迎えたということだろうか。

2024年3月20日(水)

春分の日だけれども、北風強く寒い。とにかく風が強い。地下鉄サリン事件から29年。私も危なかったが、かろうじて抜け出た。

  コーヒカップにわづかに残るカフェインの苦みあり朝食の暫時(しばらく)の後

  適温のバスにつかりてくつろげるわがからだときにとけるがごとし

  いまだ暗きに朝がらす鳴く声聴こゆやかましやかましその濁声は

『論語』雍也五 孔子が、魯の司寇(司法大臣)であったとき、原思(孔子の門人、清貧の人であった)は、その家宰になったが、九百の穀物を与えられて辞退した。孔子は「いやいや、それは隣近所にやることだ」といった。

  家宰である原子に粟九百を与へれば辞退す清廉なりき

『正徹物語』84 「風に寄する恋」の題に、次のような歌を詠んだ。
・それならぬ人の心のあらき風憂き身にとほる秋のはげしさ (出典不明だそうだ)

「人の心が冷たく酷であるのは、風のように吹かぬものであるとはいえ、激しく向かってこられると、身を貫くように悲しい。」この歌では、「それならぬ」を際限なく置き換えて試した。「忘れ行く」「かはり行く」とも候補は千も万もある。「忘れ行く」では弱い。「それならぬ」とは、私の知る人ではない、ということだ。はじめはニコニコ愛想がよかあたのに、今は激しく当たるので「その人ではない」もである。「秋」にもよくあう。自分んことに厭きてしまった人は、もうその人ではない。

  それならぬ人とはいづれ「忘れゆく」でも「かはりゆく」でもないこの辛さこそ

『伊勢物語』三十四段 男が、ふりむいてくれない女に詠んだ。
・言へばえに言はねば胸にさわがれて心ひとつに歎くころかな
情けなくもやむにやまれぬ、あわれな男ごころではないか。

2024年3月19日(火)

昨日とは変わって曇って寒い。メディカルプラザで採血、診察の日だ。

  すずめ一羽木々を移りて葉がくれに鳴く声嬉し一日のはじまり

  仮面劇の(おもて)を模写する困難もかえつて愉したましひ込めて

  麺麭を喰うにわれは富者とはおもへざるこの世いきがたし貧富の差あり

『論語』雍也四 子華が斉に使いにいった。冉子は、その留守宅の母のために穀物をほしいと願った。(ふ)(六斗四升)を与え、増やして(ゆ)(十六斗)を与えよといわれた。冉子は無断で五(へい)(八十斛)を届けた。孔子が言った。「赤が斉に行く時、立派な馬に乗って、軽やかな毛皮を着ていた。私の聞く処では、君子は困っているものを助けるが、金持ちにはそんなことはしない。」冉子が間違っているのか、子華なのか。少なくとも子華は君子ではない。それとも二人とも君子ではないということか。

  子華、冉子ともに君子にあらざるか急を助けて富めるに継がず

『正徹物語』83 「あまのすさみ」とは、海水を煮て塩を取ったり、海藻を搔き集めたり、貝を拾うといったことをいう。こういう日常の営みを「あまのすさみ」という。
・かきやれば煙たちそふもしほ草あまのすさびに都こひつつ」(『拾遺愚草』1392)「すさみ」は慰みごとの意にもなるので、注意を喚起したか。

  『拾遺愚草』の「あまのすさみ」を読めざるか正徹嘆きてかく言ひたまふ

『伊勢物語』三十三段 昔男、摂津の国莵原の郡(兵庫県芦屋あたり)に住む女のもとに通っていた。女は、今度男が都へ帰ってしまったら、わたしのもとへは二度と来ないであろう。すると男は詠んだ。
・葦辺より満ちくる潮のいやましに君に心を思ひますかな

女は返した、
・こもり江に思ふ心をいかでかは舟さす棹のさして知るべき
ひなびた里の女の歌のよしあしなどと、ばかにしたものではない。どうしてすぐれた返しではないか。

2024年3月18日(月)

よく晴れて、山側が霞んでいるのは杉花粉だろうか。鼻水が垂れる。

  キッチンにこまかく動く妻の手もと南瓜、筍、人参、大根

  むつかしき表情に妻が考ふる金銭、経費をノートに記す

  雲古の太き二本がわだかまる便器の底の水流の渦

『論語』雍也三 哀公が「弟子の中で誰が学問好きでしょうか」。孔子の答え「顔回という者が学問好きでした。怒りに任せての八つ当たりせず、過ちを繰りかえすことはなかった。不幸にも短命でした。いまは死んでいません。学問好きは、ほかには聞いたことがありません。」

  顔回の学を好むを愛したる孔子に歎きあり短命なりき

『正徹物語』82 「幽玄体」は、そのような和歌を詠める段階に達して初めて理解できる。人が「幽玄なことであるよ」と褒める歌は、単に余情体であり幽玄体ではない。ある人は物哀体を幽玄というが、これも違う。みな一緒くたに幽玄としている。定家は、「昔、紀貫之といった大歌人も、理屈の通った体は詠みましたが、幽玄味のあふれる体は詠まなかった」と書いた。物哀体は歌人ならば誰でも詠む。

  幽玄は余情と物哀とは別のもの紀貫之にも幽玄はなし

『伊勢物語』三十二段 男がいた。かつて情をかわした女に、何年かたって、歌を詠んでおくった。
・いにしへのしづのをだまき繰りかへし昔を今になすもよしがな

この歌をどう思ったのだろうか。それは女しかわからぬことだ。返歌はなかった。

侘しい思いが残るのは、私の弱さであろうか。