曇りらしい。
ちよつくら熱海
伊豆山のあたりを曲りまた登るまたまた登る妻の自動車(くるま)
音をあげる自動車ではないが後部座席に音をあげさうなる私がゐる
『孟子』告子章句下164 宗牼将に楚に之かんとす。孟子、石丘に遇ふ。曰く、「先生将に何くに之かんとする」と。曰く、「吾秦・楚兵を構ふと聞く。我将に楚王に見えて、説いて之を罷めしめんとす。二王のうち我将に遇ふ所有らんとす」と。曰く、「輠や請ふ、其の詳を問ふこと無く、願はくは其の指を聞かん。之を説くこと将に如何せんとする」と。曰く、「我将に其の不利を言はんとす」と。
孟子、宗牼に言ふ戦争をすることは不利だと思ふ
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
讃岐の松山に 松の一本歪みたる 捩りさの捩りさに 猜うだるかとや 直島の さばかんの松をだにも直さざるらん (四句神歌・雑・四三一)
【現代語訳】讃岐国の松山に、松が一本歪んで立っている。身をねじりひねりして悔しがっているとか。直島という名前があるのに、どうしてそれくらいの松さえ直さないのだろうか。
【評】崇徳院をめぐる時事批判の歌。崇徳天皇は鳥羽院の後を継いで皇位についたが、白河法皇の没後、鳥羽院と美福門院の間に体仁皇子(後の近衛天皇)が生まれると、鳥羽院は崇徳天皇に譲位をせまる。近衛天皇が幼くして亡くなると、それは崇徳院・藤原頼長らの呪詛のせいだとの世評が流れた。そのため、崇徳院の皇子である重仁皇子は即位できず、皇位についたのは崇徳院の弟にあたる後白河天皇であった。こうして鳥羽院・後白河天皇と崇徳院方との対立は深まり、鳥羽院の没後、保元の乱がおこるに至ったが、崇徳院方は敗北し、院は讃岐(現在の香川県)に流されることになった。『保元物語』によると崇徳院は讃岐の松山から直島に移され、さらに鼓岡に移されている。「松山」「直島」の地名が歌い込まれた当該今様において、ゆがんだ松は印の怨念のすさまじさを巧みに表現していると言えよう。「捩りさの捩りさに」は身をねじりくねらせるさま、「猜うだる」は「猜みたる」の音便。「猜る」は憎む、恨むの意。
さらに、この今様は、ゆがんだ松を直そうとしない者たち、すなわち、崇徳院に冷酷な仕打ちをし続ける後白河院方にまで風刺が及んでいると見ることができる。『梁塵秘抄』には、他にも保元の乱に関わると思われる今様がある。
侍藤五君 召しし弓矯も持ちながら 讃岐の松山へ入りにしは (四〇六)
(侍の藤原氏の五郎君よ、崇徳院のお取り寄せになった弓矯〈弓の曲りを直す道具〉も持っていながら、讃岐の松山へ入ってしまったのはどうしてか)
四〇六番歌は意味の取りにくいところもあるが、崇徳院の北面の武士であった侍が、持っていた弓矯や箆矯を十分に使うこともなく、戦に敗れて崇徳院の配所にお供していったことを歌っているらしい。崇徳院が讃岐に流されたのは保元元年(一一五六)、その地で没したのは長寛二年(一一六四)であるから、これらの今様は、成立時期がかなり新しい歌と見られる。崇徳院はその死後、しばしば怨霊として発動し、都の人々を恐怖におとしいれた。建久二年(一一九一)、後白河院が病に倒れた時には、崇徳院の怨霊をなだめるべくさまざまの手段が尽くされたが、その甲斐もなく、翌年三月、後白河院は絶命する。崇徳院怨霊はその復讐を遂げたことになるのである。
上田秋成の『雨月物語』「白峯」に登場する崇徳院の亡霊は、膝元に鬼火を伴い、乱れた髪に手足の爪が獣のごとくのびているという恐ろしい姿で描かれるが、それにはるかに先行する当該今様の表現も、崇徳院の恨みの激しさをあますところなく伝えてみごとである。