晴れ。
吉野杉の樽酒を飲むも旨きもの商店街の夜の酒店に
わが朋ふたりと妻と吾と奈良の一夜に歓を尽くせり
いつのまにかくらやみの中。目の赤き蔵王権現降臨したまふ
『孟子』万章章句156 孟子曰く、「天爵なる者有り。人爵なる者有り。仁義忠信、善を楽しみて倦まざるは、此れ天爵なり。公卿大夫は、此れ人爵なり。古の人は、其の天爵を修めて、人爵之に従へり。今の人は、其の天爵を修めて、以て人爵を要む。既に人爵を得て、其の天爵を棄つるは、則ち惑ひの甚だしき者なり。終に亦必ず亡せんのみ」
古は天爵は自ら修し人爵を得るに今は人爵を求めるために天爵になる
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
隣の大子が祀る神は 頭の縮け髪ます髪額髪 指の先なる拙神 足の裏なる歩き神(四句神歌・雑・四〇二)
【現代語訳】隣の一の姉さんの祀る神は、頭の縮れ髪、入れ髪、額髪、指の先にくっついた不器用の神、足の裏にある浮かれ歩きの神。
【評】隣に住む娘について、不細工で不器用で身持ちが悪いと、数々の悪口三昧の歌。ふられた男の腹いせででもあろうか。「大子」は貴人の長女もことで、本来は敬称だが、ここではわざと丁寧に言って、からかいの気持ちを込めているのであろう。
悪口の筆頭は髪に関することである。当該今様では、「神」と「髪」との同音を楽しむ言語遊戯的側面も大きいが、『徒然草』九段に「女の髪のめでたからんんこそ、人の目にたつべかめれ」(女性は髪が見事であってこそ、人の目をひきつけるようである)とあるように、長く豊かでくせのないつややかな髪は、女性の美の題一条件であった。したがって、髪が美しくないということは、女性への悪口の筆頭にあげられるものだったのである。
「縮髪」は縮れた髪。つややかな癖のない髪がよいとされていた当時、縮れ毛は最も目立つ欠点であった。『枕草子』能因本「にげなきもの」(似つかわしくないもの)の段には「しぢけたる神に葵つけたる」とあって、賀茂祭の飾りの葵も縮れた髪には似つかわしくないと捉えられている。鎌倉時代に成立した絵巻物『男衾三郎絵詞』には、珍しく縮れ髪の女性が描かれている。これは主人公男衾三郎の妻であるが、三郎は、美しい妻を持つのは武士にとって「命もろき相」であって不吉だと考え、わざと器量の悪い妻を迎えたのであった。その描写の筆頭に「髪は縮み上がりて、もとゐの際にわだかまる」とある。ひどい縮れ毛で」根本の方にとぐろを巻いたようになっていると言うのである。
「ます髪」は「増髪」で入れ髪、添え髪のことと解したが、能面の「十寸髪」(女神や巫女が心の高ぶりを見せる場合に用いる面で乱れ髪に特色がある)から乱れ髪のことと見る説もある。いずれにしても縮れ毛と並んで、髪の美しくないさまを指している。入れ髪は髪の豊かさを補うものであって、美を追求するための工夫ではあるが、『梁塵秘抄』には、「似而非鬘」としてごまかしの鬘を揶揄するような歌もある(三六九)。
「額髪」は額から左右の頬のあたりに長く垂れる髪で、女性が額をあらわに見せないためのもの。「額髪」だけなら悪口にはならないが、額髪で隠さなければならないような容姿だとの主張を込めているのだろうか。
鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』八五話には、天竺の留志長者が「我に憑きて物惜しまする慳貪の神祭らん」(私にとり憑いて物惜しみをさせるけちで欲深い神を祭ろう)と述べる場面がある。これは多くの酒食を用意させるための偽りの言葉ではあるが、とり憑いた神が人の性質を左右するという考え方が窺われる。
なお、体の各部分に「神」が憑いて、女性に悪い行動をさせるという発想は、次にあげるような、民俗芸能の歌謡の中にも見出され、広い普遍性が知られるが、当該今様は、特に「神」と「髪」の語呂合わせによってつなげてゆく構成展開が巧みである。
女房達の所に追ふべきものあり、およそなるおぐさ神、目もとなるは眠り神、足なるは歩き神 (愛知県鳳来寺の田楽歌謡)
女房達の所に寄るまじきものあり、目の上のねぶり神、指の先のをくさ神、足の先の歩き神 (長野県新野の田遊詞)