朝、雨が上がっている。台風8号は過ぎたようだが、7号がやってきて豪雨予定。
懸命にはたらく蟻を観てをればわれまた懸命に生きねばならぬ
死は遠きものとおもへど意外にも近くに在りて恐ろしきもの
九相絵巻にをみなが死してなにもかにもなくなるまでを想ひみむとす
『孟子』尽心章句上178 孟子曰く、「命に非ざる莫きなり。其の正を順受す。是の故に命を知る者は、巌牆の下に立たず。其の道を尽して死する者は、正命なり。桎梏して死する者は、正命に非ざるなり」
人生の吉凶禍福は天命なりよりてその正命を受くるべし
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
須磨の関和田の岬をかい廻うたる車船 牛窓にかけて潮や引くらん (二句神歌・四七四)
【現代語訳】須磨の関、和田の岬をぐるりと回った車船、牛窓を目がけていくと、そのあたりでは潮が引いてしまうだろう。
【評】縁語仕立てで、目新しい車船とその航路を歌った一首。
「須磨の関」は、現在の神戸市須磨区の海岸にあった関。『枕草子』に「関は逢坂。須磨の関。鈴鹿の関」とあるが、平安時代前期には廃されれている。「和田の岬」は神戸市兵庫区にある岬。「和田」の「わ」に「輪」を掛けている。「輪」「廻ふ」「牛」「かく」「引く」は「車」の縁語。
「車船」は、嘉応元年(一一六九)に成立した藤原清輔著『和歌初学抄』の「物名」の「船」の項に「クルマブネ」とあり、嘉禎元年(一二三五)以降仁治三年(一二四一)以前に成立した順徳院著『八雲御抄』の「船」の項に「車 今様にも」とも見えることから、平安時代後期に「車船」という言葉が存在したことは確かであり、『八雲御抄』の記述からすると、当該今様が「車船」の例とされていた可能性が高い。しかし、その実態はよくわからず、「車船」の名から、船体の外にある車を回転させることによって船の推進を行ったのであろうと推察される程度である。時代はかなり下がるが、宝暦一一年(一七六一)夏に成った『和漢船用集』によると、「車船」とは、「左右に車を付け、水を搔きて舟をやる者也」とされている。船の左右に車輪を取り付けた車船は、外車の回転方向によって前進後退のどちらでも自由に行なえるという利点があったが、波のある時や吃水の変化の激しい貨物船、高速船などには向かないので、実用性は必ずしもよくなかった。
このように、一般に普及したとは思えない「車船」を当該今様が「和田の岬」と共に歌うのは、この岬の北側にある大輪田泊を平清盛が大々的に修理したことと関わるものと思われる。清盛は、隠居所として構えた福原の山荘に近い大輪田泊を日宋貿易の拠点として発展させようとして、大修築を計画、困難の末、ようやく人工島を築いて「経嶋」と名づけた。また、清盛は輪田浜に天台座主らを招いて度々千僧供養を行っているが、後白河院をはじめ、多くの公卿たちが結縁のために下向した。
「牛窓」は現在の岡山県瀬戸内市内(旧邑久郡牛窓)に大字名として残るが、ここには清盛の「宿屋」があったという。
このように清盛の行動と共に人々の耳目を集めていた話題の場所が、おそらく最新型の船とともに今様に歌われることはごく自然のことであったろう。当該今様は新開地の熱気を掬い取った、まさに最新流行を追う一首であったと言えよう。