今日は、晴れのようです。
雨ふればむ砂地、穴あるたまり、雨だまり、よろけて通るL字型公園
児ら遊ぶ遊具もあれば一人、二人滑り台をすべる声をあげつつ
欅樹の下かげに籠る子らもゐる一人飛びだし次いで二人目
『孟子』尽心章句上189 孟子曰く、「の民は、たり。王者の民は、たり。之を殺すも怨みず、之を利するもとせず。民日に善に遷りて、而も之を為す者を知らず。夫れ君子の過ぐる所の者はし、存する所の者はなり。、天地とを同じうす。豈之をすと曰はんや」
王者の徳は自然なり目立つこともなければ民ものんびり
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
奥山にしばひく音の聞こゆるは 天稚御子の召す音ぞよ 召す音ぞよ (二句神歌・五六一)
【現代語訳】奥山にしきりに弾奏する楽の音が聞こえるのは、天稚御子がお弾きになる音だよ。お弾きみなる音だよ。
【評】音楽の神としての天稚御子説話を背景にした一首。
「しばひく」はしばしば(頻りに)弾くの意であろう。「しば」は本来副詞であるが、「しば立つ」「しば見る」「しば鳴く」など接頭語のように動詞に付いて用いられた。「柴引く」と読む説もあるが、「柴を引く者」が比喩として殊更に取り上げられるのはやや不審であるし、「柴」を「折る」「刈る」という用例は多いが、柴を「引く」というのは一般的な表現とは言い難い。
「召す者」は、原本「みすおと」を「御簾音」として、天稚御子が天降る時に聞こえる御簾の音とする説もある。『梁塵秘抄口伝抄』巻一〇には、熊野詣の折に神前で今様を歌うと、御簾が動いて御正体の鏡が鳴り、長い間振動していたことが記される。神の霊験の表れとして神殿の御簾が動いて音をたてることは大いに有り得るが、当該今様の場合、場所は「奥山」であるし、御簾音は神の降臨者の音として珍しくないということになれば、聞こえてくる「音」を、他のいずれの神でもない音楽神としての天稚御子がたてる音だと判断している当該今様において、取り上げられるにあまりふさわしいものではないだろう。母音のiとeの交替はしばしば見られ、『梁塵秘抄』にも、市場の呼び声として「木や召す」「炭や召す」の例(三八九)がある。
天稚御子は、天禄から長徳(九七〇~九九九)頃に成ったとされる『うつほ物語』俊蔭に登場し、俊蔭のために天降って三十の琴を造り与えたという。さらに天女が天降ってその琴に漆を塗り、織姫に琴の絃をすげさせた。俊蔭がその琴を与えられたのは、木を倒す斧を頼りに三年間尋ね回って辿りついた険しい山の中であった。天稚御子の天降る場所として「奥山」を提示する当該今様とも通い合う。また延久から永保元年(一〇六九~一〇八一)頃に成ったとされる『狭衣物語』巻一では、主人公の狭衣中将が諸芸にすぐれ、特に音楽に堪能であることを評して「天稚御子の天降りたまへるにや。今日天の羽衣迎へきこえたまはむ」(天稚御子が仮にこの世に現われなさったのか。今日にでも天人がお迎えに来られるかもしれない)とする。また、帝の御前で笛を吹いた時には、そのあまりの素晴らしさに天稚御子が天降り、狭衣中将を天界に連れ去ろうとしたという。人々の前に姿を表した天稚御子は、髪をみずからに結ったかわいらしい童姿であった。
さて、こ天稚御子との関連を説かれる神に『古事記』『日本書紀』に登場する天若日子(『日本書紀』では天稚彦)がいる。この天若日子は、天孫邇邇芸命の降臨に先立って高天原から地上に派遣された。しかし、地上で結婚した天若日子は八年もの間戻らず、しかも事情を尋ねるために天上から遣わされた雉を射殺す。怒った天上の紙が雉の射られた矢を投げ返すと、天若日子の胸に当って死んでしまう。天降り、反逆する神として描かれているのである。この神話には音楽神としての性格は見えず、当該今様で歌われている音楽に関わる天稚御子は、『うつほ物語』や『狭衣物語』で語られた後は、表舞台から姿を消してしまう。まさに平安時代後期に脚光浴びた今様(当世風)の流行の神だったと言えるのではないだろうか。
室町時代に下ると、蛇の姿で天上から地上の女に求婚するというお伽草紙『天稚彦草紙』(『七夕』とも)の主人公として、天稚彦の神が登場する。娘と契って昇天した天稚彦を追って、娘は天界の星々を尋ね回り、やがて天稚彦再会とするが、天稚彦の父に妨げられる。いくつかの試練を受けて、二人は織姫星・牽牛星となり一年に一度だけ逢うことを許された。お伽草紙の主人公は、蛇身であり、海竜王・牽牛星とも一体化していくもので、記紀の神とは全く異なる。音楽神の側面も持っていないが、『うつほ物語』で天若御子の作った琴に織姫が絃を張ったというところには、七夕説話との接点が窺われる。後世にも名前だけは伝わっていく天稚御子の、音楽神としての性格は平安時代後期に注目されていたものであり、その性格を背景に、天稚御子の奏楽の音色を謎解きの形でおもしろく表現したのが当該今様だったのである。