いやぁいい天気だ。
妻との旅かならず雨の日がありてこの旅もまた例外ならず
金沢は満開の桜うつくしく海老名はすでにはなびら落とす
おやつには羽二重餅を二枚づつ妻と小さな笑みうかべをり
『孟子』万章章句下139 孟子 万章に謂ひて曰く、一郷の善士は、斯に一郷の善士を友とす。一国の善士は、斯に一国の善士を友とす。天下の善士は、斯に天下の善士を友とす。天下の善士を友とするを以て、未だ足らずと為すや、又古の人を尚論す。其の詩を頌し、其の書を読むも、其の人を知らずして可ならんや。是を以て其の世を論ず。是れ尚友なり」と。
一郷は一郷の友、一国・天下はそれぞれにそれでも足りずば古人を思へ
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
清太が作りし刈鎌は 何しに研ぎけむ焼きけむ作りけむ 捨てたうなんなるに逢坂奈良
坂不破の関 栗駒山にて草もえ刈らぬに (四句神歌・雑・三七〇)
【現代語訳】清太が作った刈鎌は、何のために研いだのだろう、焼を入れたのだろう、
作り上げたのだろう。いっこうに切れず、捨てたくなるのに。逢坂、奈良坂、不破の関、栗駒山で草も全く刈りとれないのに。
【評】清太の切れない草刈鎌をからかった一首。これまでの注釈書の説は、農夫の間に歌われたものとして、特に寓意を見ない説と、清太から平清盛を連想し、平氏政権の弱体ぶりを風刺したものと考える説とに大別される。後者の説について、清盛は、平家の太郎(長男)という意味で「平太」と呼ばれるべきであり、『平家物語』巻二「西光被斬」には、清盛が若い頃、「高平太」(高足駄をはいた平家の長男)とあだなされたことが見えるから、「平太」ならともかく、「清太」と清盛とを直接結びつけるのは難しいように思われる。諸注、指摘するように、平安時代末期に成立した書簡文集『明衡往来』にも「清太」の名が見え、「清太」は格別珍しい名前ではなかったようであるから、特定の個人とは、必ずしも結びつかないだろう。
清太の草刈鎌が全く役立たずであるのをからかう歌として読むことも可能であるが、三六二番歌で見たように、下草を女に譬え、「草を刈る」ことを、男女の情交の比喩とする表現の流れからは(→三六二)、当該今様も、裏に、女を得られない清太をからかう意味を込めていると見られるのではないだろうか。
「逢坂」は京都と滋賀との境に位置し、関が置かれて、東国への出入り口となっていた。和歌の中では「逢ふ」との掛詞で詠まれることがきわめて多い。
「奈良坂」は京都から奈良へ抜ける奈良山越えの坂道。特定の景物と結びついて詠まれるような歌枕ではないが、「なら」の音を含み、「風は夕べになら坂や」(『草根集』)、「光も雨になら坂や」(『逍遥集』)など、ある状態に「なる」の意と掛けられることがある。恋の成就することも「なる」と表現するので、「逢坂」同様、音の上で、恋と結びつく要素を持つ地名である。
「不破の関」は岐阜県不破郡関ケ原町にあった関所。延暦八年(七八九)には廃されており、平安時代末以降、無人の関屋の荒れ果てた風景を詠む和歌が多い。不破の関には限らないが、関は人やものを留める場所でもあり、しばしば「過ぐ」「止まる」「留める」などの語とともに詠まれる。
「栗駒山」は京都府宇治市にあり、狩猟地として名高い所であった。平安時代中期に成立した歌物語『大和物語』には「栗駒の山に朝たつ雉よりもかちにはあはじと思ひしものを」(栗駒の山に朝飛び立つ雉が、狩をする人に出会わないようにしようと思う以上に、私もかりそめには契りを結ぶまいと思っていましたのに)、「み狩する栗駒山の鹿よりもひとり寝る身ぞわびしかりける」(あなたが狩をなさる栗駒山の鹿もつらいでしょうが、それよりも、ひとりで寝る私の身の方がいっそうつらいことですよ)といった例が見られる。当該今様においては女を得ることを狩猟のイメージと重ねたものか。
すなわち、これらの地名が言語遊戯的に並べられたものと考えると、想い人に逢えるという逢坂でも、恋が「なる」(成就する)という奈良坂でも、人を留めておいてくれるはずの不破の関でも、獲物がとれるはずの栗駒山でも、結局、清太は女をものにすることはできないのだな、というからかいが効果的に印象付けられるのである。