曇り、くもり、クモリ……
長き時を養はれしとおもへども師の心中には立ち入りがたし
「人」短歌会解散の時と師の死の時われには重し何為し難く
分厚く重い『岡野弘彦全歌集』手に持て余し頁を開く
『孟子』告子章句上153 孟子曰く、「拱把の桐梓も、人苟も之を生ぜんと欲せば、皆之を養ふ所以の者を知る。身に至りては、之を養ふ所以の者を知らず。豈身を愛すること桐梓に若からざらんや。思はざるの甚だしきなり」
桐や梓の育て方は知るものの事の軽重は考へざりき
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
海老漉舎人はいづくへぞ 小魚漉舎人が行くぞかし この江に海老なし 下りられよ あの江に雑魚の散らぬ間に (四句神歌・雑・三九五)
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いざ給べ隣殿 大津の西の浦へ雑魚漉きに この江に海老なし あの江へいませ 海老まじりの雑魚やあると (四句神歌・雑・三九六)
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粟津の興宴は 東の大津の西浦へ 海老まじりの雑魚捕りに 大津の西の浦は悪し 上り大路ぞ何も良き (四句神歌・雑・四四一)
【現代語訳】「海老漉舎人はどちらへお出かけせすか」「小魚漉舎人のところへ行くのですよ」「この入江に海老はいません、お下がりなさい、あの入江の方へ。雑魚がいなくなってしまう前に」
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「さあ行きましょう、お隣さん。大津の西の浦に雑魚すくいに」「この入江に海老はいません、あの入江にいらっしゃい。海老まじりの雑魚がいるか探して」
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「粟津の面白さといえば、東の方、大津の西の浦へ海老まじりの雑魚を捕りに行くことだね」「大津の西の浦はあまり良くないよ。都の上り大路こそ何もかもが良い具合だよ」
【評】海老すくい、雑魚すくいの芸能に関わる歌。簡単な筋を持つ猿楽芸などに用いられた掛け合いの歌と思われる。
藤原仲実(一〇五七~一一一八)の歌学書『綺語抄』には「小魚」の説明の中に「雑芸云、こひすき舎人はいづくへぞ さゐすき舎人はいづくへぞ」とあり、三九五番歌と関わる詞章の一節が見える。「海老漉舎人」は海老をすくいとる舎人(貴人に仕えて雑役をつとめた者)、「小魚漉舎人」は小魚をすくいとる舎人。小魚について、『綺語抄』は田のあぜのたまり水などにいる小さい魚と説明する。なお、弘化四年(一八四七)九月開版『重訂本草綱目啓蒙』四〇に「白魚 ミゴヒ〈和名抄〉 ニゴヒ サイノウヲ」と見え、淡水魚の似鯉の一名に「さい」があり、現在も、関東や東北に方言として残る。
藤原明衡(九一八?~一〇六六)の『新猿楽記』に記された平安時代後期の芸能に「蝦漉舎人が足仕」という演目が見え、特に足さばきに焦点を当てた書き方になっているが、舎人が海老や魚を探し、追う様子をおもしろおかしく演じたのであろう。三首の今様は、このような芸能と深く関わるものと考えられる。海老をすくう様子を演じる芸は、狂言にも見られ、民俗芸能に於ても奈良県生駒市壱分町の往馬大社の例祭(火祭り)や新潟県柏崎市女谷「綾子舞」に行われている。泥鰌すくいの芸などとあわせ、海老すくいの物真芸が時代を越えて人々の興味の対象となっていたことがわかる。
三九六番歌と四四一番歌に見える「大津」は琵琶湖の南西岸の大津市付近、四四一番歌に見える「粟津」は大津市の南東。『梁塵秘抄』にも近江の名所尽くしの歌に「粟津」が見えている(三二六)。和歌においては、しばしば薄が詠まれ、粟津は閑寂な風情で捉えられるが、今様では、芸能化した賑やかな漁が取り上げられており、趣が大きく異なる。四四一番歌は、結句で、都の上り大路(京都の町を南北にはしる大通り)をほめたたえており、主題が海老すくいからややそれていく。三九五番歌も三九六番歌との関わりから大津を歌っているとすると、入江に「海老なし」、雑魚が「散る」、「浦は悪し」など、三首とも、大津をあまりよい場所として捉えてはおらず、 田舎に対して都をほめる点は、都市の芸能、都市の歌謡としの今様の性格がよく表れていよう。