6月22日(月)

晴れているが、曇りになり、やがて雨らしい。

『岡野弘彦全歌集』

  何とでもぬかせといふやうな大きく重き『全歌集』なり

  八千余首の歌を収めしぶ厚き歌集。それぞれに言ひたきことあれば言へ

  眼・耳・鼻・舌・身・意の六根清浄唱ふるわが(み)

『孟子』告子章句下173 魯、(がく)正子(せいし)をして政を為さしめんと欲す。孟子曰く、「吾之を聞き、喜びて寐ねられず」と。公孫(こうそん)(ちう)曰く、「楽正子は強なるか」と。曰く、「否」と。「知慮(ちりよ)有るか」と。曰く、「否」と。「(ぶん)(しき)多きか」と。曰く、「否」と。「然らば則ち(なん)(す)れぞ喜ばしくして寐ねられざる」と。曰く、「其の人と(な)りや善を好めばなり」と。「善を好めば足るか」と。曰く、「善を好めば天下に優なり。而るを況や魯国をや。夫れ苟も善を好めば、則ち四海の内、皆将に千里を軽しとして来り、之に告ぐるに善を以てせんとす。夫れ苟も善を好まざれば、則ち人将に曰はんとす、『訑訑(いい)たり。予(すで)(すで)に之を知れり』と。訑訑の声音顔色(がんしよく)は、人を千里の外に(ふせ)ぐ。士千里の外に止まらば、則ち讒諂(ざんてん)面諛(めんゆ)の人至らん。讒諂(ざんてん)面諛(めんゆ)の人と居らば、国治まらんこと欲するも(う)(べ)けんや」と。

  楽正子は善を好む当然ながら人は集まり国も治まる

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る さしさしきしと抱くとこそ見れ                 
(二句神歌・四六〇)

【現代語訳】恋しくて恋しくて、久しぶりにやっと逢って共寝をした夜の夢はどんなだろう。「さしさしきし」と抱きしめると見るだろうよ。

【評】恋の激情に身をまかせた一夜を歌う官能的な一首。

恋ひ恋ひて稀に今宵ぞ逢坂の木綿つけ鳥は鳴かずもあらなむ
                    (『古今和歌集』恋三・よみ人知らず)
(恋い焦がれてきてようやくあの人に逢えた今宵、逢坂の関の木綿つけ鳥よ、どうぞ鳴かないでおくれ)

たまさかに逢ふ夜は夢の心地して恋しもなどか現なるらん
                    (『金葉和歌集』恋下・よみ人知らず)

(たまに逢う夜は夢のようにはかなく、恋い焦がれている苦しい時がどうして現実なのだろう)

右に掲げたように、今様に先行する和歌にも稀なる逢瀬をテーマにしたものがあり、表現も類似しているが、和歌においては、全体として逢瀬のはかなさが強調されているのに対し、当該今様は、閨の愛撫の悦楽を、擬態語、擬音語を用いて濃密に表現している。ただし、和歌の中でも例外的なものとして、貞元元年(九七六)から永延元年(九八七)までの間に成立したとされる私撰集『古今和歌六帖』には次のような例が見える。

夢にのみききききききとききききとききききききと抱くとぞ見し

「き」音の繰り返しは夢の中にだけやって来たという意味で「来」との掛詞になっているが「抱く」に続く下の句では、当該今様と同様の擬態語として働いており、発想の共通性が注目される。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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