朝方は雨、そして曇り。昨日、関東地方も梅雨に入ったらしい。
蒲原は雪の坂道上り下る誰もが蓑笠に雪積もらせて
御油の宿に女中に引き込まるる禿げ頭軟弱さうなり。われかも知れず
四日市は風吹く、荒く、男一人、笠を飛ばして笠追ひかける
『孟子』告子章句下164-3 先生仁義を以て秦・楚の王に説かんに、秦・楚の王仁義を悦び、而して三軍の師を罷めば、是れ三軍の士、罷むるを楽しんで仁義を悦ばん。人の臣為る者、仁義を懐いて以て其の君に事へ、人の子為る者、仁義を懐いて以て其の父に事へ、人の弟為る者、仁義を懐いて以て其の兄に事へば、是れ君臣・父子・兄弟、利を去り仁義を懐いて、以て相接するなるり。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利と曰はん」と。
仁義あれば君臣・父子・兄弟接すべし利害の説明などいらざることなり
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
法師博打の様がるは 地蔵よ迦旃二郎寺主とか 尾張や伊勢のみみづ新発意無下に悪きは鶏足房 (四句神歌・雑・四三七)
【現代語訳】法師姿の博打うちで一風変わっておもしろい連中は、地蔵よ、迦旃、二郎、寺主とかいう者たち。尾張国や伊勢国のみみづ、新発意。ひどく腕の悪いのは鶏足房。
【評】法師姿の博打うちの名を列挙した歌。仏教に関わる名を持っているものが多く、人名の羅列ながら大仰なおかしみを誘う。「迦旃」は釈迦の十大弟子の一人・迦旃延からきた名前であろう。「二郎寺主」「みみづ新発意」はそれぞれ一人の名と見る説もある。後者については、尾張国(現在の愛知県西部)、伊勢国(現在の三重県北部)と二か所の場所が出されているので、二人と見た方がよいか。この部分を個人名とせず、「みみづ新発意」で意気地のない新発意たち(新発意は発心して新たに仏門に入ったもの、新参の僧)ととるや説「水屑新発意」でつまらない新発意たちととる説もある。なお考える余地があるが、前後はすべて個人名と見られるので、この部分についても、「みみづ」「新発意」の二人の名と解した。虫の「蚯蚓」の仮名遣いは正しくは「みいず」であるが、『梁塵秘抄』現存本の仮名遣いがかなり乱れていることと、新参の僧の意味の「新発意」と並べられる名であることから、暗い土の中でごそごそしているつまらない虫といった揶揄的な意味合いで「蚯蚓」と呼ばれた可能性も捨てがたい。
「無下に悪き」は、ひどく悪いという意味であるが、何を対象としているのかについては、容貌が悪いと見る説、方法があくどいと見る説、運が悪い、ついていない、と見る説、腕前が悪い、下手であるとする説など見解が分かれている。『梁塵秘抄』には、博打を歌った次のような一首もある。
博打の好むもの 平骰子 鉄骰子 四三骰子 それをば誰か打ち得たる 文三刑三 月々清次とか (一七)
(博打うちが好むものは、平骰子、鉄骰子、四三骰子。その骰子を誰が上手に打てるのか。文三、刑三、月々清次とかいう連中さ)
一七番歌では、博打うちの名人上手をあげており、博打うちにとって一番問題なのは勝負に勝てるかどうかの腕前だと考えられる。「運」も勝負を左右するものではあるが、それも博打うちと見て、ここでは腕前の悪さを言っていると解した。
「鶏足房」は、鶏足山(釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の信頼を得て教団の長老にもなった訶迦葉が入寂したとされる山一八五)からきた名前であろう。
人名の解読には難しいところもあるが、法師姿で抹香くさい名を持つ博打うちたちが活発に動き回っていたことが想像されておもしろい。