午前は曇り、午後一時頃より雨らしい。
おいおいこんな山道を行く果てにあるのかMOA美術館は
歌川広重画く東海道五十三次。つぶさに観つつただ疲れたり
箱根の山はこんなだつたかと思ひつつ雨や雪降る宿場を越えつ
『孟子』告子章句下164-2 曰く、「先生の志は則ち大なり。先生の号は則ち不可なり。先生利を以て秦・楚の王に説かんに、秦・楚の王利を悦び、以て三軍の師を罷めば、是れ三軍の士、罷むるを楽しんで利を悦ばん。人の臣為る者、利を懐いて以て其の君へ事へ、人の子為る者、利を懐いて以て其の父に事へ、人の弟為る者、利を懐いて以て其の兄に事へば、是れ君臣・父子・兄弟、終に仁義を去り、利を懐いて以て相接するなり。然り而うして亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。
君臣・父子・兄弟だれも仁義を捨て利害にむかへば国は滅びむ
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
春の初めの歌枕 霞鶯帰る雁 子の日青柳梅桜 三千歳になる桃の花
(四句神歌・雑・四三二)
【現代語訳】春の初めの和歌の素材としては、霞、鶯、北に帰る雁、子の日、青柳、梅、桜、三千年に一度実を結ぶという桃の花
【評】春の景物を並べた物尽くし今様。「帰る雁」は冬鳥である雁が春になって北に渡っていくことをいう。「子の日」は正月の初めの子の日。またその日の行事をいう。野外に出て小松を根ごと引き抜いたり、若菜を摘んだりして、長寿を願った。中国の風俗にならったもので、奈良時代から宮中ではこの日に遊宴のあったことが知られるが(『続日本紀』天平一五年<七四三>正月条)、平安時代に入って一般に広まり、初春の代表的な行事となった。勅撰集では『後撰和歌集』以後、春の部立の中に置かれる。「三千歳になる桃の花」は、仙女西王母が漢の武帝に与えた桃の実が三千年に一度結実するものであったという故事による(『漢武故事』〈前漢の武帝[前一五六~前八七]の生涯を描いた小説。後漢の班固[三二~九二]に仮託した六朝時代[三~六世紀]の作など]〉。
和歌にも多く詠まれ、
三千歳になるてふ桃の今年より花咲く春にあひにけるかな
(『拾遺和歌集』賀・凡河内躬恒)
(三千年に一度実がなるという桃が、今年から花咲くというめでたい春にちょうど巡り合ったことだよ)
三千代経てなりけるものをなどてかはももとしもはた名づけそめけむ
(『後拾遺和歌集』春下・花山院)
(三千年に一度なるものだというのに、その桃の実を「千」ではなく「もも〈百〉」などとまあどうして名づけはじめたのであろうか)
のような例がある。
全体の構成を見ると、第二句「霞鶯帰る雁」は、視線が空にあり、後の二者が鳥であることで共通している。第三句「子の日青柳梅桜」は、子の日に小松を引くことを詠む和歌の類型を背景に置くと、松・柳という緑の木に、梅・桜という紅や白の木の花が取り合わされることになる。樹木の連想が連なって最後に紅の桃の花が歌われる。このように視線の移動、すなわち空間的対比や色の対比によって素材配列がなされていることがわかる(三三三・三八六)。最終句は先にふれたように仙桃の故事を踏まえているが、このように最後に説話・伝説を盛り込むのも物尽くし今様の一つである(三五六)。
『梁塵秘抄』には、
春の初めの歌枕 霞たなびく吉野山 鶯佐保姫翁草 花を見捨てて帰る雁(一三) の一首もある。一三番歌は和歌にほとんど詠まれない「翁草」を取り上げて、「佐保姫」と「翁草」の「翁」を対比するところに意外性と面白さがあったものと思われる。このように、同じテーマの今様が、さまざまに素材を組み替えた形で歌われ、楽しませていたのであろう。