雨が降っているが、晴れてくるらしい。
水っぱなが固まり鼻の穴ふさぐ一夜乾燥したる寝床に
雲の果て曇りて淡く陽の位置がおぼろに見ゆる東の空
けやき大樹が濃き緑葉を繫らせるその上の雲に映る日のかげ
『孟子』告子章句下172 孟子曰く、「君子は亮ならず。執ることを悪めばなり」
君子たる者は小信を固執せずそれは一つに固執するを憎むからなり
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
恋しくは疾うおはせわが宿は 大和なる 三輪の山本杉立てる門 (二句神歌・四五六)
【現代語訳】私を恋しく思うならば、早く早くおいでなさい。私の家は、大和国にある三輪山の麓、杉の立っている門です。
【評】三輪山伝説がさまざまに変容していく中で生まれた歌の一つ。三輪山は奈良県桜井市にあり、山麓の大神神社(三輪明神)の神体とされる。『古事記』崇神天皇条に見える著名な三輪山伝説は、大物主大神と活玉依毘売との神婚伝承である。夜ごと通って来る男いよって姫は懐妊するが、その男の正体がわからない。そこで着物の裾に麻糸を通した針をつけて跡を追ってみると、糸は鍵穴を抜けて三輪山の神の社に留まっていたので、男は蛇身の大物主大神であるとわかった。ここには、当該今様に類するような歌謡は記されていないが、延喜五年(九〇五)に勅命のあった『古今和歌集』雑下には、
わが庵は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門
の一首がよみ人知らずとしてとられている。それが後代の歌集、歌論書においては、少しずつ異同を持ちながら、三輪明神の歌とされていく。
かど 三輪の御
わが宿は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉建てる門
(『古今和歌六帖』二/九七六~九八七年頃)
三輪の明神の歌 恋しくはとぶらひ来ませちはやぶる三輪の山本杉立てる門
(『俊頼髄脳』一一一五年頃
三輪明神の御歌 恋しくはとぶらひ来ませわが宿は三輪の山本杉立てる門
(『袋草紙』上/一一五七~一一五八年頃)
さらに下って、能「三輪」においては、女に化身した三輪明神が、玄賓僧都に『古今和歌集』所収歌を詠みかけてかき消すように姿を隠す。自分を訪ねてきてほしいと望む表現は、『古事記』の大物主大神のような男の神よりも、能「三輪」に見えるような女神にふさわしいであろう。
さて早く『枕草子』の「歌は」の章段に「歌は風俗、中にも杉立てる門」とあり、今様以前に、風俗(地方の歌謡が貴族社会に入ってきたもの)として、類歌が歌われていたことがわかる。『栄花物語』巻八によると、寛弘五年(一〇〇八)、中宮彰子が生んだ敦成親王の五十日の祝の酒宴で、酔った中宮大夫(藤原斉信)が盃を手に「三輪の山本謡ふて」とある。これも先にあげたような三輪山の歌が謡い物として旋律にに乗せて歌われていたことを示していよう。
当該今様は、第二句に「疾う疾う」(「疾く疾く」の音便)の繰り返し表現を含み、早く早くと相手に強く訴えるものになっている一方、三輪について「大和なる」(大和にある)と客観的に説明している。「大和なる」を除けば、当該今様は五・七・五・七・七の短歌体になるため、後からの挿入句とも考えられる。いずれにせよ、強く直接的に訴えかける表現と地理的な説明の付加は、広い範囲の聴衆を意識したものであろう。浄瑠璃や歌舞伎で知られる葛の葉伝説(信太の森の狐が陰陽師安倍保名と契り、この清明を産むが、やがて歌を書き残し、姿を消す)に見える、
恋しくは尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
も、三輪の歌から生まれたバリエーションの一つと言えるが、この「和泉なる信太の森」という表現は当該今様の「大和なる三輪の山」と重なる面がある。