晴れているが、曇りになり、やがて雨らしい。
『岡野弘彦全歌集』
何とでもぬかせといふやうな大きく重き『全歌集』なり
八千余首の歌を収めしぶ厚き歌集。それぞれに言ひたきことあれば言へ
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根清浄唱ふるわが軀(み)
『孟子』告子章句下173 魯、楽正子をして政を為さしめんと欲す。孟子曰く、「吾之を聞き、喜びて寐ねられず」と。公孫丑曰く、「楽正子は強なるか」と。曰く、「否」と。「知慮有るか」と。曰く、「否」と。「聞識多きか」と。曰く、「否」と。「然らば則ち奚為れぞ喜ばしくして寐ねられざる」と。曰く、「其の人と為りや善を好めばなり」と。「善を好めば足るか」と。曰く、「善を好めば天下に優なり。而るを況や魯国をや。夫れ苟も善を好めば、則ち四海の内、皆将に千里を軽しとして来り、之に告ぐるに善を以てせんとす。夫れ苟も善を好まざれば、則ち人将に曰はんとす、『訑訑たり。予既に已に之を知れり』と。訑訑の声音顔色は、人を千里の外に距ぐ。士千里の外に止まらば、則ち讒諂面諛の人至らん。讒諂面諛の人と居らば、国治まらんこと欲するも得可けんや」と。
楽正子は善を好む当然ながら人は集まり国も治まる
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る さしさしきしと抱くとこそ見れ
(二句神歌・四六〇)
【現代語訳】恋しくて恋しくて、久しぶりにやっと逢って共寝をした夜の夢はどんなだろう。「さしさしきし」と抱きしめると見るだろうよ。
【評】恋の激情に身をまかせた一夜を歌う官能的な一首。
恋ひ恋ひて稀に今宵ぞ逢坂の木綿つけ鳥は鳴かずもあらなむ
(『古今和歌集』恋三・よみ人知らず)
(恋い焦がれてきてようやくあの人に逢えた今宵、逢坂の関の木綿つけ鳥よ、どうぞ鳴かないでおくれ)
たまさかに逢ふ夜は夢の心地して恋しもなどか現なるらん
(『金葉和歌集』恋下・よみ人知らず)
(たまに逢う夜は夢のようにはかなく、恋い焦がれている苦しい時がどうして現実なのだろう)
右に掲げたように、今様に先行する和歌にも稀なる逢瀬をテーマにしたものがあり、表現も類似しているが、和歌においては、全体として逢瀬のはかなさが強調されているのに対し、当該今様は、閨の愛撫の悦楽を、擬態語、擬音語を用いて濃密に表現している。ただし、和歌の中でも例外的なものとして、貞元元年(九七六)から永延元年(九八七)までの間に成立したとされる私撰集『古今和歌六帖』には次のような例が見える。
夢にのみききききききとききききとききききききと抱くとぞ見し
「き」音の繰り返しは夢の中にだけやって来たという意味で「来」との掛詞になっているが「抱く」に続く下の句では、当該今様と同様の擬態語として働いており、発想の共通性が注目される。