晴れているが、朝ちと寒い。
あやふくも六日のあやめになるところ五日の菖蒲苦き匂ひす
菖蒲草、剣のやうに鋭くて湯につかるわれさむらひならむ
幼き日の義経兜を飾るものの尚武のこころつひに興らず
『孟子』告子章句上148-3 故に苟も其の養ひを得れば、物として長ぜざること無く、苟も其の養ひを失へば、物として消せざること無し。孔子曰く、『操れば則ち存し、舎つれば則ち亡す。出入時無く、其の郷を知る莫しとは、惟れ心の謂か』と。
取り守れば存し放置すればなし。出入決まらず居場所も分からずまるで心か
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
西山通りに来る樵夫 を背を並べてさぞ渡る 桂川 後なる樵夫は新樵夫な波に折られて尻杖捨ててかいもとるめり (四句神歌・雑・三八五)
【現代語訳】西山通りにやって来る木こりたち。背中を並べてそんな風に渡るのだね、桂川を。後ろの木こりは新米の木こりだな。波にあおられて尻杖を手放してもがいているようだ。
【評】木こりの行列を写実的に捉えた一首。新米の木こりをハラハラしながら見つめるまなざしがあたたかい。木こりは『梁塵秘抄』三九九番歌にも「樵夫は恐ろしや」と歌われ、ある力を持った存在として関心を持たれていたらしい。
「西山」は京都西郊、桂川の流れる嵐山辺りを指すか。金閣寺裏山一帯を指すとし、木こりが桂川を渡り、西山に入って行くと見る説もあるが、「来る」と言っているので、山から下りてきて、桂川を渡り、都の中心部の方へやって来る様子と見たい。木こりの移動を珍しいものとして好奇心をもって眺めている様子からは、歌の主体の視点は都側にあると考えられるからである。
「波に折られて」は、波にあおられて腰を折られる様子を言うのであろう。和歌においては、池水のみぎはならずは桜花影をも波に折られましやは (『詞花和歌集』春・源師賢)
(桜の木のある場所がもし池の汀でなかったならば、桜の花の影さえも波に折られはしなかっただろうに)
のように、花の影が水に映っているのを、花が波に折られたと見なすものや、
浦近き高嶺を風の渡らずは波に紅葉の折られましやは (『月詣和歌集』十月・藤原範綱)
(浦近くの山の高嶺を風が渡らなかったならば、波に紅葉が折られることもなかっただろうに)
のように、海上に散った紅葉を波に折られたと見なすものがあるほか、岸近み植ゑけん人ぞ恨めしき波に折らるる山吹の花 (『山家集』)
(岸に近いため、波に折られる山吹の花を見ると、そんなところに植えた人が恨めしく思われることだよ)
のように、実際に波の力で折れた山吹の枝を歌った例がある。いずれにしても、和歌において波が折るのは、美しい花や紅葉の枝であるが、当該今様では、波が木こりの体を折るようにぐらつかせることを歌い、ほのかなおかしみを誘う写実的な表現になっている。
「尻杖」は休息の時などに背中の荷物の下にあてがって体を支える杖。明応九年(一五〇〇)末に成立した、歌合形式をとった職人絵『七十一番職人歌合』一二番には「木伐」と「草刈」が番えられているが、木こりは、背中に柴を背負い、左手にT字型の杖を持った姿で描かれている。